'Tis a Long Way to Connaught

Connaughtは遠い

今年のケルクリ!ようこそチーフタンズ

 一昨年のケルクリの大興奮に続く去年の完全スルーを経て、今年は早めのケルティッククリスマスがやってきたよ!今年はなんと5年ぶりの来日となる超大物チーフタンズ。原メンバーが二人しか残ってない今、これが最後の来日になってもなんらおかしくない。というわけで見逃すわけにはいくまいと行って参った。

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当日の写真等はプランクトンのブログで見られます

 …まあ当初は行く気なかったんだけどね。別にチーフタンズのアルバムとかほとんど持ってないし。先輩からチケット譲ってもらえたから、というのが正直なところだ。

 11月30日すみだトリフォニーホールにて、(当然だが)単独公演。前の週には渋谷でトラディショナルナイトと称した伝統音楽中心の構成の公演があった(これは友人によれば素晴らしいものだったらしい)が、例年の本会場であるトリフォニーでは、新日本フィルハーモニー交響楽団とコラボするシンフォニックナイトを謳っていた。

 普通の伝統音楽バンドなら「けっオケと共演なんてクソ公演もいいとこだぜ」と言い放ちつつ綺麗なフライヤーを即刻シュレッダーに突っ込むところだが、今回はそうはいかぬ。だって世界中のあらゆる音楽とコラボしてきた天下のチーフタンズが相手である。オケなんてあって当たり前、結成の経緯からして芸術音楽との垣根を埋めるために生まれてきたようなもんなのだから、ある意味ではチーフタンズの真骨頂が見れるかもしれない公演といえよう。それも相手は天下の新日本フィルwith竹本泰蔵氏(FFのコンサートを振って以来隠れファン)とあっては、(見に行く気がなかった身としては図々しいが)広くアイルランド音楽に関わる人にとって最注視に値するコンサートに違いない。

 コンサートの内容はまあどっかで詳しくやってくれると思うのでざっくり。一部はチーフタンズと小ゲストたちによるいつもの単独公演。二部はオケとの合同コンサート。個人的に印象に残ったのは一部のMorning DewとMo Ghile Mear、そして二部のガリシアンセットかな。一部は定番チューンの安定っぷりに、二部はオーケストラをあっさり伴奏として使いっぱしる図太さに、やっぱ大御所がやることは違うわ、と箸にも棒にも掛からぬ感想をもった。

 むしろ強く感じたのは、一曲一曲の素晴らしさよりも、チーフタンズというバンドの在り方がとても面白いということである。アイルランド音楽の大御所中の大御所をこうやって初めて目の当たりにして言語化できる彼らの凄さは、私の場合少し回りくどい形で降ってきた。彼らの歩んだ50年の重みは、一体何によって担保され続けてきたのか?メンバーも次第に欠け、一見苦し紛れの若手による補完を繰り返してきたチーフタンズが、その一貫性、自己同一性を保持し続けられるのは何の故なのか?その答えの片鱗は、たった2時間のコンサートにおいても強烈な印象を私に与えた、彼らのある特質にあることは確かであろう。陳腐な言い方かもしれないが、それは、彼らの圧倒的な包容力である。

 現在のバンドの構成からして、チーフタンズは多種多様な音楽性の混合によって成っている(はずである)。クラシック、ブルーグラス、カントリー、フォーク、…もはやアイルランド伝統音楽にバックグラウンドを持たないメンバーのほうが多いくらいである。しかし彼らは依然として「アイルランド音楽の国宝級バンド」であり、そのように表象され、また。チーフタンズ流としか呼びようのない、しかし確固たる独自性を備えたその音楽は、あらゆるジャンルを自らの一部として包含してしまう。それはあたかも、楽器奏者が自らの楽器を手足のごとく扱うがごときである。

 音楽評論家の松山晋也が、チーフタンズは変化するがゆえに不変であり、その性質のためにアイルランド音楽の最前線を維持し続けることができたとこの間語っていた。チーフタンズの場合、この変化/不変のバランスは、本質が表層を常に凌駕し、その手綱を握ることができるからこそのものに思われる。今回のコンサートでは、その本質は専らパディ・モローニの個性によるのではないか…とすら感じたがこれはどうだろう。50年の歴史は単純に個人に帰することができるものではないかもしれないが。

 いずれにせよ、コンサートの一部も二部も、彼らとゲストによって作り出される音空間は、もうどうしようもなくチーフタンズの音楽であった。リールもワルツもシャンノースもガリシアンセットも、あらゆる様式はチーフタンズの強烈な個性に従属していた。ゲストが新たな音楽性を持ち込むとき、チーフタンズはそれを分解したり破壊したりすることなく、ただただ自らの音楽のうねりの中に取り込む。そこには異なる要素が明らかに混じり合えず存在しているのに、チーフタンズの生み出す時間は、その不調和をも抑えこみ、一時的に一つに合流させて提示してくるのである。

 異文化の吸収といえば、アイルランドの独立期に横行した、コーコラン教授のそれに代表される言説が思い浮かぶ。すなわち、アイルランド民族アイルランド文化は、植民地支配を通してアイルランドに食い込んだイギリスの甚大な歴史的影響力をも最終的に消化しつくし、自らのものにできる、という信念である。しかし実際はアイルランド語は駆逐され、英語文化への実質的同化が進んだという歴史的事実は、今ではこの言説の正当性を極めて怪しいものにしてしまった。ケルティックタイガーも終焉を迎えた今では、そもそもアイルランドの本質的強さを信念もて語ることすら滑稽に映るくらいである。

 しかしチーフタンズのあり方をみたとき、もしかしたらこのバンドこそが、多文化に対する吸収力を体現することに成功しているのでは、と思えてやまない。西洋芸術音楽だろうがあらゆる音楽が彼らを中心に周り、吸収され、しかしその本質を害することは決してない。これこそ、かつてのナショナリストたちが夢見た、伝統と革新を兼ね備えた不撓不屈のアイルランド像そのものなのではなかろうか?チーフタンズの音楽が、古い農村の音楽実践に直接遡り民族の独自性を担保するとされた「真正な」伝統音楽であるとは、そのごった煮的な様式を見る限り到底思えないのは確かだ。しかし彼らの音楽性、彼らが体現している音楽の在り方は、いよいよ幻想となってしまったアイルランド文化の力強さを、ほんの少しながら現前させてくれるように感じるのだ。