Transatlantic Sessionsを振り返ろう −シリーズ5
サラリーマンになってからというもの、帰宅後および休日が完全にフリーになってしまい、何か生産的なことをしないとやってられなくなった…
というわけでTransatlantic Sessionsを振り返ろうの企画も進めてまいります。
さてさて駆け足でいきますよ。さっそくシリーズ5です。この調子でBBCに追いつけ追い越せですよ。
2011年にBBC Scotland, BBC Four, RTÉで制作され放送されたシリーズ5。シリーズ3が2007年、シリーズ4が2009年だから、ほぼ2年おきで放送されていて、シリーズ2が1998年であることを考えると制作間隔が明らかに縮まっている。ちなみに次のシリーズは2013年放送。いよいよBBCにおける定番企画としての地位を確立してきたようである。
撮影場所はまたもやハイランドがパースシャーのハンティングロッジ。ロケ地としてクオリティが高すぎるんだよな、あの辺…。多分4のときとは違うところ?今回はバックに割と大きな窓があって、少し開放的な雰囲気がでている。
会場の雰囲気が変わったと同様に、今回のゲストアーティストの顔ぶれはこれまでとかなり異なるように思われる。おっさんおばさんばかりだったTSに何と当時19歳のサラ・ジャローズが颯爽と参加。それも全然悪目立ちという感じでもなく、新鮮で開放的な雰囲気の醸成に一役買っている。伝統音楽の問題を扱うにあたって高齢化と後継者の問題はつきものだが、わずかとはいえその辺りも意識されているようである。
さらにライナーノーツでも特筆されているが、今回初めてブルース畑からの出演が実現した。Transatlantic Sessionsが黒人歌手(という表記はポリティカリーインコレクトだろうか?)を招いたというのは、やはり極めて画期的なことだ。これは、「大西洋横断文化」の理解として、いわゆるWASPによるヨーロッパ文化起源アメリカ文化、みたいな歴史的に狭い枠組みを明確に放棄し、より現在的な意味での多様性あるアメリカをきちんと視野に入れて構築しなおしたという表明にほかならない。野心ある試みだと思う。
とはいえ、ブルースあるいはゴスペルといった黒人文化が「大西洋文化」の一端であるとするとき、その結節点を想定するとどうしてもロックを初めとする戦後世界を席巻したポップス群にいたらざるをえない。前シリーズもすでに相当にポップスへの傾倒が進んでいたことを前の記事で指摘しているけれども、ブルースの導入はおそらく番組のさらなるポップス化を進めるのではないか?あとで見るように、実際シリーズ5の特徴としてドラムスの遠慮ない利用があり、それは間違いなくポップスとの接近を示すものである。だとしたらこの傾向は、今も残る多様なルーツ・ミュージックが刹那改めて交じり合う場であったTSを、かつて交じり合ってきた歴史を単に早送りで追認してしまうだけのものに変えてしまうのではないか?…
まあどちらがいいのか悪いのか、まずもって分からないし、この段階でそんな大上段な話をしてもしかたない。いつもどおり放送ごとの個人的ハイライトを紹介して、最後にもう一度この話に立ち戻りつつ、シリーズ5の特色を考えてみたい。
Programme One:
Òran na Cloiche - Kathleen Macinnes with Sarah Jarosz
初登場のカスリーン・マキネスによるスコットランド・ゲール語歌唱。はじめに薀蓄を垂れておくと、Oran na Cloicheすなわち「あの石の歌」という題を冠したこの歌が語るのは、スコットランド王が代々その上で戴冠したとされながらイングランドとの戦争*1で奪われた「運命の石」を、1950年、スコットランドの学生が盗んで持ちだしてしまったという事件の顛末である。つまり歌詞*2も曲もそんなに古いものではなくて、言ってしまえば新民謡みたいなかもしれない。
しかしこの"模造"民謡、バラッドの伝統に則った歌詞を16小節の繰り返しでちまちま語るスタイルをきちんと踏襲していて、本物より本物っぽいバラッド歌唱なのである。上下の少ないメロディー、繰り返しだけど歌詞に合わせて伸び縮みするフレーズ、コテコテのリフレインコーラス、どれをとっても一端のバラッドである。
バラッド歌唱は物語が面白いのであって音楽的には素朴であることが多いのだけど、この曲が素晴らしいのは、もちろんマキネスの明朗かつ滋味深い歌声の力もあるが、単純なメロディーをフレーズ毎に延々と再構築し続けるフルートの貢献を見逃すわけにはいかない。コーラス兼バンジョーのサラ・ジャローズが加える異国情緒も独特な雰囲気の醸成に一役買っている。
Programme Two:
Helvic head / Kiss the Maid - Michael McGoldrick with Béla Fleck
第2回からはこれまでのTSでもおなじみ、マイケル・マクゴールドリック先導によるアイリッシュ・ダンスセット。スロージグから特急リールに突入する典型的なパターンなんだけど、注目は後半のリールで、ドラムスとセッションスタイルのすり合わせの見事さに舌を巻く。
アイリッシュ・ダンスとドラムスといえば、大ホールでのケーリーバンドか、録音前提のロック的伴奏か、というのが相場で、たとえばパブでのセッションにドラムス持ち込むのはセッションマスターにぶっ飛ばされること請け合いのヤバい行為である。
もちろん今回だってPA&録音前提の演奏であることには変わりないのだが、ドラムスの全面的参加にかかわらず、全体としてのセッションの香りを全く失っていないというもはや理解に苦しむレベルの名演奏である。ドラムスの利用は過去のTSシリーズでも少しずつ実験してきたから、その集大成として絶妙なバランスが獲得されたのかもしれない。今回の演奏はダンスチューンとドラムスの関係を考える上での参照点になるのではなかろうか。
マクゴールドリックとならんでベーラ・フレックがクレジットされているが、この曲では普通にセッションに加わっているだけでいうほど目立っていない。次の会を待て。
Programme Three:
Big Country - Béla Fleck
第3回、いや、TS5における最高傑作がこれだ!バンジョーでプログレフォークを牽引する鬼才ベーラ・フレックの1曲が、TSという場を得てこんな形に変貌を遂げるなんて!とにかく私はこの曲このアレンジが好きで好きでたまらない。トラッド、フォークだけじゃない、インストバンドに興味あるものは必聴のトラックである。
まず構成のダイナミクスが神がかっている。フィドル3本によるイントロ→フレックの超絶技巧ソロ→ギターでメロディーを受けて→全員でBメロAメロ→静かになったところでベースソロ→ドブロの半即興のソロ→再度バンジョーソロ変奏→全員でのサビと変奏の嵐→Aメロに戻って終了。たった2パートしか無いメロディーラインから、徹底的にフレーズの可能性を掘り起こし、最適な順番で提供する、フルコースの如き完成度。
個々のパートの情感も到底言い尽くせない。最初のバンジョーソロはメロディーとアルペジオで限界まで音が詰まっているのに、無駄な音が一音もなく、とにかくこの曲の根源的なテーマはここにあるのだということを圧倒的説得力でもって示してくる。
全員で演奏するBメロの一体感も極上である。イントロやAメロの比較的細かい動きから一転、シンコペーションの効いた大枠のメロディーが見事なユニゾンで心に染み入る。
笛吹きの視点から言えば、最後のマクゴールドリックによるローホイッスル変奏によってこの曲は画竜点睛を得るといいたい。彼の超絶技巧の対旋律が奇妙にもBメロと融合して互いの魅力を引き出し合う。感涙必至。このときいつになく真剣かつ陶酔した顔を見せるマクゴールドリック、あれこそまさに音楽の神の神憑りの瞬間だったのだろう。そう感じざるをえない至福の一曲である。
Programme Four:
A Lewis Summer - Iain Morrison
第4回にはあんまりお気に入りがない……。
あえて言えば、スコットランドのシンガーソングライター、イアン・モリソンのこの歌が耳に残る。ギターとドラムスを中心とした伴奏でトラッド感はほとんどないが、今のスコットランドフォークシンガーの最前線をきちんと拾ったという感じである。モダンな雰囲気と上手く調和した単調なリールが間奏にねじ込まれており、リールの様式の新しい側面を感じられる。(カパーケリーなんかも好きな手法だけど、それよりずっと洗練されている印象)
Programme Five:
Don't Ever Let Nobody Drag Your Spirit Down
- Eric Bibb with Sam Bush, Dirk Powell & Jim Murray
この曲は先に述べたようにTS新機軸のためガッツリ扱いたいのは山々なのだが、如何せんブルースを知らなすぎるので何も言えねえ…!ただTS全体との関連で言えば、特にジャンル間の融合を図ろうとしてる気配はなくて、この曲は純粋にブルースを導入しようとして入れただけっぽい。クレジットを見た時ほどの衝撃はなかった。エリック・ビブのブルースギター自体は素晴らしいものだったが…
Programme Six:
Route Irish - Jerry Douglas
TS恒例のジェリー・ダグラスのソロ曲。なぜお前はこんなに名曲を何発も持っているんだ…!
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※長いことほっておいてしまったのでとりあえずここまでアップします。まとめについては後に追記予定。
Transatlantic Sessionsを振り返ろう −シリーズ4
私が修士論文を書いている間に本国イギリスではTransatlantic Sessionsのシリーズ6がスタートしておりました。なんということでしょう。しかもDVDまで出てた(当然購入済み)。
だんだん本シリーズに置いていかれてしまっているので、今回はちゃっちゃとシリーズ4を振り返ってみたいと思います。
Transatlantic Session 4 [DVD] [Import]
- 出版社/メーカー: Whirlie Records
- 発売日: 2010/04/06
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第11回博麗神社例大祭で新譜が出ます
来週の日曜日に開催されます第11回博麗神社例大祭にて、私の参加しているサークル「ジャージと愉快な仲間たち」の新譜が出ますので宣伝です。
今回はこれまでの活動の集大成としてベストアルバムを出します。
曲は旧譜からの再録ですが、すべて再編曲&再録音!3年かけてリファインされたあの曲この曲がこの1枚に。古参のジャージファンの方にも一見さんにもおすすめの一枚となっております。イベントに寄られる方はぜひぜひ一度お聴きくだされば幸いです。
私は今回は演奏にも参加しております。3月にライブをするまですっかり鈍っていたサンポーニャですけれどもなんとか気力で録音いたしました…!
また例によってWebサイトも作成しております。今回はさすがに就職してしまってちょっと時間がなかったのでただのテンプレ改変なんですけどね?()
コミケ84でCDが出ます
またもや宣伝。宣伝ブログになってるなあ、よろしくない。でも宣伝。
本日から始まっておりますコミックマーケット84(C84)ですが、3日目つまり8月12日に私の所属するサークル「ジャージと愉快な仲間たち」が参加いたします。場所は東2 S-56aです。
今回の新譜はまたひと味違います。タイトルはJina-Jina Tinku 4/4
収録されている4曲のすべてが、ボリビアの喧嘩祭りティンクを彩る踊りのリズムでアレンジされております。き、キチガイじみてる
ティンクは4/4拍子で、かつ4曲ともそのリズム…ということをかけたタイトルになっているようですが、普通分からないですねこれは!
今回も担当はサイト作成。諸事情で凝ったギミックは設けられなかったのが少し心残りですが全体としては王道なのではなかろうか。デザインはこれまたいかにもボリビアぽい感じにしてみました。興味がありましたら訪れてみてくださいまし。
あ、当日もしコミケ会場にいらっしゃる場合は水分補給等しっかりと準備してくくることをおすすめします。例年にない猛暑ですのでね。
北国出身の私は干からびんばかりです
私事ですが就職先が決まりました。ばんざい
例大祭10でCD出します
久しぶりに宣伝。
明日5/26、私の所属するサークル「ジャージと愉快な仲間たち」が博麗神社例大祭10に参加いたします。場所は東1ホール B45bです。
作風は今までどおりの南米音楽風東方アレンジ。4曲の小品ですが、いろいろ新しい試みもあったりなかったりのようですよ?
今回も例によってサイト作成を担当しております。
是非ご覧いただいて当日スペースを訪ねていただければ嬉しいです。
Transatlantic Sessionsを振り返ろう −シリーズ2
長く間が開いてしまったけどTSシリーズを振り返る試みを再開。
TS2は1998年にBBC FourおよびBBC Scotlandで放送された、全7回のテレビシリーズ。DVDが権利関係で一時お蔵入りになっていたが、満を持して昨年発売された。偶然TS5の本放送と同時期の発売となり、2011年は私を含めTSファンにとって喜ばしい年となった。
Transatlantic Sessions 2 [DVD] [Import]
- アーティスト: Jerry Douglas,Aly Bain
- 出版社/メーカー: Whirlie Records
- 発売日: 2012/08/14
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今年のケルクリ!ようこそチーフタンズ
一昨年のケルクリの大興奮に続く去年の完全スルーを経て、今年は早めのケルティッククリスマスがやってきたよ!今年はなんと5年ぶりの来日となる超大物チーフタンズ。原メンバーが二人しか残ってない今、これが最後の来日になってもなんらおかしくない。というわけで見逃すわけにはいくまいと行って参った。
プランクトンさんの公式サイトはこちら
当日の写真等はプランクトンのブログで見られます
…まあ当初は行く気なかったんだけどね。別にチーフタンズのアルバムとかほとんど持ってないし。先輩からチケット譲ってもらえたから、というのが正直なところだ。
11月30日すみだトリフォニーホールにて、(当然だが)単独公演。前の週には渋谷でトラディショナルナイトと称した伝統音楽中心の構成の公演があった(これは友人によれば素晴らしいものだったらしい)が、例年の本会場であるトリフォニーでは、新日本フィルハーモニー交響楽団とコラボするシンフォニックナイトを謳っていた。
普通の伝統音楽バンドなら「けっオケと共演なんてクソ公演もいいとこだぜ」と言い放ちつつ綺麗なフライヤーを即刻シュレッダーに突っ込むところだが、今回はそうはいかぬ。だって世界中のあらゆる音楽とコラボしてきた天下のチーフタンズが相手である。オケなんてあって当たり前、結成の経緯からして芸術音楽との垣根を埋めるために生まれてきたようなもんなのだから、ある意味ではチーフタンズの真骨頂が見れるかもしれない公演といえよう。それも相手は天下の新日本フィルwith竹本泰蔵氏(FFのコンサートを振って以来隠れファン)とあっては、(見に行く気がなかった身としては図々しいが)広くアイルランド音楽に関わる人にとって最注視に値するコンサートに違いない。
コンサートの内容はまあどっかで詳しくやってくれると思うのでざっくり。一部はチーフタンズと小ゲストたちによるいつもの単独公演。二部はオケとの合同コンサート。個人的に印象に残ったのは一部のMorning DewとMo Ghile Mear、そして二部のガリシアンセットかな。一部は定番チューンの安定っぷりに、二部はオーケストラをあっさり伴奏として使いっぱしる図太さに、やっぱ大御所がやることは違うわ、と箸にも棒にも掛からぬ感想をもった。
むしろ強く感じたのは、一曲一曲の素晴らしさよりも、チーフタンズというバンドの在り方がとても面白いということである。アイルランド音楽の大御所中の大御所をこうやって初めて目の当たりにして言語化できる彼らの凄さは、私の場合少し回りくどい形で降ってきた。彼らの歩んだ50年の重みは、一体何によって担保され続けてきたのか?メンバーも次第に欠け、一見苦し紛れの若手による補完を繰り返してきたチーフタンズが、その一貫性、自己同一性を保持し続けられるのは何の故なのか?その答えの片鱗は、たった2時間のコンサートにおいても強烈な印象を私に与えた、彼らのある特質にあることは確かであろう。陳腐な言い方かもしれないが、それは、彼らの圧倒的な包容力である。
現在のバンドの構成からして、チーフタンズは多種多様な音楽性の混合によって成っている(はずである)。クラシック、ブルーグラス、カントリー、フォーク、…もはやアイルランド伝統音楽にバックグラウンドを持たないメンバーのほうが多いくらいである。しかし彼らは依然として「アイルランド音楽の国宝級バンド」であり、そのように表象され、また。チーフタンズ流としか呼びようのない、しかし確固たる独自性を備えたその音楽は、あらゆるジャンルを自らの一部として包含してしまう。それはあたかも、楽器奏者が自らの楽器を手足のごとく扱うがごときである。
音楽評論家の松山晋也が、チーフタンズは変化するがゆえに不変であり、その性質のためにアイルランド音楽の最前線を維持し続けることができたとこの間語っていた。チーフタンズの場合、この変化/不変のバランスは、本質が表層を常に凌駕し、その手綱を握ることができるからこそのものに思われる。今回のコンサートでは、その本質は専らパディ・モローニの個性によるのではないか…とすら感じたがこれはどうだろう。50年の歴史は単純に個人に帰することができるものではないかもしれないが。
いずれにせよ、コンサートの一部も二部も、彼らとゲストによって作り出される音空間は、もうどうしようもなくチーフタンズの音楽であった。リールもワルツもシャンノースもガリシアンセットも、あらゆる様式はチーフタンズの強烈な個性に従属していた。ゲストが新たな音楽性を持ち込むとき、チーフタンズはそれを分解したり破壊したりすることなく、ただただ自らの音楽のうねりの中に取り込む。そこには異なる要素が明らかに混じり合えず存在しているのに、チーフタンズの生み出す時間は、その不調和をも抑えこみ、一時的に一つに合流させて提示してくるのである。
異文化の吸収といえば、アイルランドの独立期に横行した、コーコラン教授のそれに代表される言説が思い浮かぶ。すなわち、アイルランド民族アイルランド文化は、植民地支配を通してアイルランドに食い込んだイギリスの甚大な歴史的影響力をも最終的に消化しつくし、自らのものにできる、という信念である。しかし実際はアイルランド語は駆逐され、英語文化への実質的同化が進んだという歴史的事実は、今ではこの言説の正当性を極めて怪しいものにしてしまった。ケルティックタイガーも終焉を迎えた今では、そもそもアイルランドの本質的強さを信念もて語ることすら滑稽に映るくらいである。
しかしチーフタンズのあり方をみたとき、もしかしたらこのバンドこそが、多文化に対する吸収力を体現することに成功しているのでは、と思えてやまない。西洋芸術音楽だろうがあらゆる音楽が彼らを中心に周り、吸収され、しかしその本質を害することは決してない。これこそ、かつてのナショナリストたちが夢見た、伝統と革新を兼ね備えた不撓不屈のアイルランド像そのものなのではなかろうか?チーフタンズの音楽が、古い農村の音楽実践に直接遡り民族の独自性を担保するとされた「真正な」伝統音楽であるとは、そのごった煮的な様式を見る限り到底思えないのは確かだ。しかし彼らの音楽性、彼らが体現している音楽の在り方は、いよいよ幻想となってしまったアイルランド文化の力強さを、ほんの少しながら現前させてくれるように感じるのだ。