'Tis a Long Way to Connaught

Connaughtは遠い

Brian Finnegan "The Ravishing Genius of Bones" 追記

Ravishing Genius of Bones

Ravishing Genius of Bones

Amazon含む一般流通にも流れ始めたようなので、一ヶ月聴き込んで気付いた点について追記。それぞれの曲に関しては一ヶ月前のエントリで。

聴き込んでみてもこれがやはり名盤であることは変わりない。伝統と呼ばれる領域をすべて消化し、それを下敷きにしながらそこから少し飛び出たところにある音楽。その手段としての彼の個性があらゆる面でいかんなく発揮されているアルバムである。中でも私が注目した数点についてちょっと触れてみる。


一つには、ドラムスが使われる楽曲が一つもないということ。これが意味するのはちょっと複雑なFinneganのスタンスであろう。
 まずこのことは、近年のコンテンポラリー的トラッド(つまり純伝統主義じゃない)のアルバムとしてはかなり珍しい。ゲストのプレイヤー、というか楽器が本当に多種多様に及ぶ上に、オリジナル曲そのものやそのアレンジ自体がかなり先鋭的であって、彼自身の志向が、単なるいわゆる「アイリッシュ・トラッド」の結晶化にないことは明らかだ。まあそもそもそんなものが抽出できるということ自体が幻想ではあるのだが、例えばRonan Browneのソロアルバムなんかのような、パイプス一セットでトラッド曲をどこまで突き詰められるか、これまで積み上げられてきたあらゆるものをいかに一つの曲としてまとめあげるか、というスタンスは、相対的にかなりそのような伝統主義よりのアプローチであると思う。
 対して例えばMichael McGoldrickのソロアルバムでは、いわゆる「伝統的」な要素のうち欲しい部分だけを抽出して、それを基礎に他のジャンルから持ってきた要素と融合させている。その中でも代表的なのがドラムスの使用である。Bothy Bandが達成したトラッドへのロック・グルーヴの導入をさらに進めた結果として、例えばリールに8ビートを重ねるかたちで、ドラムスの切れのあるビート感をダンスチューンに持ち込むことを目指した手法といえよう。
 しかし、トラッドにおいてドラムスなんてのはある意味禁忌である。そもそももともと打楽器の存在しなかった音楽であって、今でもセッションでバウロンが嫌われることがあるという事実が、トラッドの旋律中心主義、すなわち、旋律楽器が旋律のみならずリズムまでも支配するという強い考え方を反映している。だとすれば、大音量で刻まれ他のパートの前提として機能するドラムスのビートは、原点からトラッドにおけるその存在価値を否定されて然るべきである。移り変わる伝統の流れの中で、旋律楽器中心主義が失われて行く過程で生まれてきた編成として評価できるとしても、少なくとも、ドラムスの導入はあまりに急進的で、これまで保存されてきたいくつかの価値を大きく破壊するものである。
 対してFinneganはドラムスを使っていない。まあFlookのときや他の人との演奏の場では確かにドラムスと一緒にやってたことも多々あるのだが、むしろそれは、ここにきてソロアルバムで使用しないことの重要性を際立たせている。つまり、彼自身の音楽性の中にトラッドとドラムスの非親和性がしっかりと存在しているということである。理由ははっきりとはしないが、一つ考えられるのはPA派なのか生演奏派なのかという観点で、もし後者であるならばドラムスの音量はホイッスルを吹き飛ばすレベルという絶対的問題にぶち当たるために、その回避のためにその使用を自粛している可能性である。
 ただし、彼の演奏はかなりモダンな、言い換えればドラムスが乗りうるような粒のそろったビートを持ってはいる。Ed Boydのバックギターのスタイルは明らかにそれを示しているし、Finneganのタンギングスタイルもまたその表れであろう。彼作曲のリールが一番分かりやすい。このアルバムだったらBelfast Set。したがって、リズムの点では、彼はダンス伴奏としての伝統的なノリを捨て、ある意味でよりキャッチーな、世界のポピュラーミュージックで受け入れられているスタイルを受け入れることで、むしろ伝統的なメロディーや形式の新たな側面・価値を創造しようと試みているのである。
 だとすれば、Finneganのスタンスは、よく言えば伝統と革新のバランスを巧みにとることに成功しているが、一方ではかなり妥協的なものであるとも言える。


個人的にはそれがいい。ドラムス使用のダンスチューンはどうしても鼻につく。70年代の音源を聴いている感覚で、新しいメロディーを聴けるという安心感。リズムはより慣れ親しんだものに近づき、はじめに感じてしまいかねない心理的とっつきにくさもなくなっている。それでいてそれは間違いなくアイルランドのダンスチューンであって、それが涵養した独特の音楽性にも手が伸ばせる。そういうFinneganのアレンジは、アイリッシュミュージック初心者にこそ勧めたいし、かつ、古くからのファンにも評価されうるポイントだと感じる。


次はFinneganのアレンジ力の凄さ。広い意味では上の話もこれに入れちゃっていいような気もするが、ここでは、メロディー構築という点での作曲力に対する、楽器配分と伴奏構成に関する編曲力ということを指すことにする。
 正直な話、彼の作曲した非ダンスチューンの旋律はトラッド的には(ポピュラー音楽的にも?)かなり不自然である。まあダンスチューンも大概だが、それは前述のとおりグルーヴの制限をとっぱらったことでメロディーの自由度があがった結果として受け取ることができるが、非ダンスチューンはそれどころの話ではない。例えば私のような演奏力のないへっぽこ奏者がコピーして伴奏なしで演奏したら、「何適当なメロディー吹いてるんだよ」と突っ込みが入ってもおかしくないレベルである。
 しかし実際のアルバムにおいては、ことさらメロディーのみに注目し続けない限りは、違和感もなくフルートとギターのハーモニーを楽しめる。これは偏に、その優れた編曲によるものであろう。不自然すなわち醜、とはいえないことは確かで、その反例となるべく、その編曲はメロディーそのものの違和感を拭い去るだけでなく、むしろその不安感を全体の統一感の一つの要素として取り込み、曲の豊かさを増している。個々の編曲云々に関してはいちいちは触れないが、例えばLast of The Starrsが弦楽カルテットをバッキングに擁するのも、かつて(今もだが・・・)ケルト音楽としてもてはやされた雰囲気音楽の影響では毛頭なく、あるいは最近流行りだした純粋トラッドとクラシックの融合ということでもなくて、トラッドに大きく影響を受けながらそこからはみ出る独自の音楽性をつくりあげたFinnegan自身が書いた特徴的なメロディーに対して、編曲の過程で必要とされたのがここでは弦楽であったというこのなのである。他の曲も同様である。つまり、トラッドの壁を突き抜ける過程で多少不自然さを増してしまったメロディーを、同じようにトラッドの壁を越えた巧みな伴奏を創造することで包み込み、バランスをとりながらも緊張感を湛えた美しいチューンとして完成させているということである。


でもこれはプレイヤー視点では聴いてて少し辛い。あまりに彼の模倣は難しい。技術的なものだけではなく、そもそもの楽曲自体が彼の特殊な音楽性を顕在化させたものであって、多少触れた程度ではその深みに到達することは到底不可能である。憧れの境地として、彼のホイッスルはプレイヤーの心を打つばかりである。
 しかし彼のチューンを、彼が演奏したままに再現する必要は全くない。これまでの歴史の中で幾多のチューンが生まれ一般化して受け継がれてきたように、彼のチューンもまた、聴き手に受け入れられる中で変容していくはずである。希望的観測ではあるが、彼自身のトラッドへの愛着を考えれば、彼もまた自分のチューンがそうなるべきことは了解しているし、むしろそれを望んですらいるかもしれない。トラッド志向のプレイヤーとして、彼のチューンを演奏するのならば、覚えて模倣するだけでなく、内面化し、自分のものとしていくことが必要ではなかろうか。彼自身の演奏は、未来に続く無数の演奏の中で、一つの金字塔として君臨するのみである。






それにしても俺にこんな長文を書かせる時点で、このアルバムがいかに素晴らしいか分かってもらえるかもしれない(笑)何度でも言いますが、おすすめ!
途中に出てきたアルバムも聴いて比較してみるのも吉かも。

The Wynd You Know

The Wynd You Know

Aurora

Aurora